2012年11月29日

河豚

先日昔のお仲間さん達と忘年会がありました。
会費は高くないのに、名幹事さんのお陰でとても美味しい河豚を楽しく食べることができました。

鉄鍋の真ん中が左右に仕切られており、「普通は2種類の料理が混ざらないためだと思うが、今回は1種類のみ。これは一人で沢山取りすぎないための工夫でしょう。」と皆で納得し、ワイワイガヤガヤ。

鍋の写真を撮り、ここにアップするつもりでしたが、殆ど食べた後の残骸鍋で、見たくない状態が撮れていたのでアップは中止。

で、食べた内容を正確に把握しようと、今ネットで確認したら、なんとなんと食べたのは「河豚」だけではなく、「くえ」との食べ比べコースでした! 道理で美味しいわけです、これは本当にお勧めです。また食べたい!

メニューは以下のとおりでした。

・ふぐ皮ポン酢
・くえぶつ刺し
・くえ鍋とふぐ鍋の二色鍋
・ふぐの唐揚げ
・ふぐの白子の天ぷら
・香の物
・卵雑炊
・葱たっぷりうどん
・水菓子(メロン・巨峰)
特典 くえ酒 飲み放題付き

飲み放題はかなり種類も豊富でした。

posted by ビールとワン at 11:36| Comment(1) | TrackBack(0) | 美味しい

2012年11月17日

コンピュータ製作−3 Windows95 Pentium 100MHz

部品一覧最初のPC30.jpg

会社が年末年始の連休に入った1995年12月23日に秋葉原の小さなビルの2階にある、そのお店へ開店と同時に喜び勇んで行きました。

店長の若いお兄さんに「部品一式を購入するので組み立ての指導をして欲しい」旨申し出て、すぐにパーツ選びから始まりました。先ずはディスプレーは前回のブログで記載したものを指定、定価の半額以下でした。あと全ての部品を彼と相談しながら決定。その一覧は写真をご覧ください、表示されている各部品毎の金額は消費税3%加算前のものです。クリックして頂くと拡大されます。

ディスプレーが一番高く、次はメモリーです、メモリーは8MB(8GBではありません!)2本で税抜き59,000円もしました。1MB当たり単価は現在の約2000倍以上です。マザーボードの形状はまだATXではなく、ベビーATというサイズで米国のマイクロニクスというメーカのものでした。CPUはペンティアム100MHz、で31,800円、現在最新の4コア8スレッド3.5GHzのCPUを購入してもお釣りが十分にきます。当時一番最速なものでも166MHzでした。ハードディスクは1.2GBで28,000円。

逆に言うと現在のパソコンは1995年頃と比較すると数千倍以上能力が高いことになります、複数コアおよび転送速度向上で、あるいはもっと高いかも知れません。

組み立ては店の端のスペースで行い、別の若い店員さんが面倒みてくれました。店員さんは別の客の応対もしながらなので、時々待ち時間がありましたが、何とか組み立て完了。驚いたのは、一か所も半田付けをせずに完成したことです。今ではごく当たり前ですが、電子機器を製作するのに半田付けをしないなんて、ものすごく各部品が規格化されていることに感嘆しました。使用した工具はプラスドライバー1本のみです。

引き続きインストールです。Win9xのパソコンを使用しなくなって10年以上経つので大分忘れてしまいましたが、手順は多分次のようであったと思います。

MS−DOSのフロッピーディスクをセットし、電源オン。
ハードディスクのパーティションを設定、およびフォーマット。
CDドライブにWindows95をセットし、これをインストール。

私はスピーカは予算の関係で買いませんでしたが、店長さんが店のスピーカをつないでくれました。再度電源を入れると暫くしてWindows95の柔らかいチャイムの様な嬉しい音がなり、あの画面が出て無事立ち上がりました。大大感激!でした。

ディスプレーは宅配をお願いし、本体は離れたくないので持参のカートに乗せて嬉しく引っ張って帰りました。時刻は3時を回っており、気がついたらかなり空腹、せまいお蕎麦屋さんに大荷物を持ち込んで、「いただきまーす」。パソコンのことで頭がいっぱいで何を食べたのか覚えていません。

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2012年11月16日

コンピュータ製作−2 Windows95 Pentium 100MHz

Win95CD30.jpg
以前Z80というCPUを使用したシングルボードのマイコン製作について触れましたが、私が自分の為に最初にパソコンを製作したのは1995年の12月でした。

OSであるWindows95が1995年11月23日夜(勤労感謝の日)に華々しく販売開始され、秋葉原でこのOSを買い求める人々の賑わいがTVのニュースで放映されていました。しかし、大半の人が所有するパソコンではWindows95をインストールしてもあまり満足には動きませんでした。パソコンのハードウエア能力がWindows95が必要とする能力に対し低すぎるためです。この時からマイクロソフト(ソフトメーカー)とインテル(ハードメーカー)による能力拡大路線に世界中のパソコン使用者々が弄ばれる時代が始まりました。人々は次々に販売される新しく魅力的なOS(Windows xx)を使用するために、ハードウエアも新モデルに買い替えさせられるサイクルが始まりました。今も続くウインテル(Windows + インテル)ビジネスモデルの大勝利時代です。もちろん私もこれにしっかり捕まってしまっております。

これはパソコンのみでなく、メインフレームでも全く同じことです。コンピュータメーカは次々と新しいOSを華々しく発表します、まるで新時代が到来したように。客先が新しいOSを導入しない場合は「古いOSはサポート対象外になります。御社の基幹システムやオンラインシステムに弊社の古いOSに起因する障害が発生しても当社では対処できなくなります。」と脅かします、毎月高額な保守料を支払っているのにかかわらずです。無理矢理にでも新しいOSを導入させ、かつ「新しいOSがスムーズに動くように」とハードウエアも拡大させられてしまいます。

話を戻して、私もパソコンが欲しくて秋葉原を毎週ウロウロし、あちこちの店を冷やかしておりました。当時はパソコンを自分で製作することは一般的ではなく、秋葉原でもメーカー製完成デスクトップパソコンのみを大々的に販売している店が大半でした。

購入対象モデルが大分絞られてきた頃、ある小さなビルの2階にある店に入るとパソコンの部品がばら売りされており、「当店でパソコン部品を一式購入した方には、パソコン組み立ての指導をします」との張り紙を発見し、「これだ!」と思い、即座に完成品購入路線から自作路線へシフトチェンジしました。

店内には「パソコンお宅」の走りみたいな方々がウヤウヤおられました。そこには完成品の展示がないので、外に出て先ず高性能なディスプレー(ブラウン管式テレビ)を探すことにしました。理由はメーカー性パソコンを沢山見ていると、画面がチラチラして見づらいものが多く、せっかく作るのならチラチラしないヤツを作りたいと考えたからです。

チラチラしないディスプレーを探す為に品揃えが良く、実際に画面を表示している今は無き大きな店で、遂にブラウン管式テレビなのに恰も紙に印刷したように見える製品を発見しました。当時は14インチが主流でしたが、17インチの三菱電機のRD17G2という製品で、ディスプレーのみで定価25万円との表示、当時のデスクトップパソコン一式が十分に買える価格でした。その日は一旦帰宅し、頭を冷やすことおよび予算見直し措置をすることにしました。
次回へ続く。
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2012年11月13日

デジカメはマニュアルモードが楽しい!

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最近カメラに嵌まっており、愛用の小型のデジイチ・ソニーNEX-5を腰のベルトに括り付け頻繁に撮影を行っています。

ここで気がついたこと。撮影時にカメラの背面にある液晶をこれから撮る写真の構図などを決める為ではなく、出来あがった写真を眺める気持ちで見てみるととても楽しい。フイルムカメラ出身者である私は、今までこれから撮る絵を見ていました。

フイルム式の一眼レフのファインダーを覗く時は、この撮影用レンズを通して見るとこのように見えるのかと、とても楽しいものでした。しかし撮影結果は想像や期待するしかなかった。これがデジカメでは撮影結果をほぼ見ながら絵を作れるのです。

これを楽しむためには露出・シャッタースピードの設定はマニュアルモードにしておくのが肝心です。液晶を見ながら好みの絵になるように露出・シャッタースピードを調整するのです。カメラが物理的に提案する露出やシャッタースピードに従うのではなく。こうすることで絵全体の感じを創り込むことができます。例えば全体を少し暗めの落ち着いた絵にしたければ、シャッタースピードの設定を上げれば液晶もちゃんと暗くなり、絵の感じも大きく変わります。これはオートで露出補正を+1やー1.5にしたりするより遥かに楽しい。

あたりまえと言えば当たり前の話で、既にこの感覚でデジイチを使用されている方は多いのだろうと思いますが、私は初めて気が付き、私としては新しい楽しみが増えました。

撮影結果はパソコンの画面で楽しんでいます。画面から映し出される写真の感じがとても好きなのです。さらにこの方式だとランニングコストが限りなくゼロに近く、さらに置き場所にも困らないのも大いに宜しいのです。
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2012年11月11日

パソコン製作 Z80 ワンボードマイコン


私はコンピュータを自分で製作するのが大好きです。
最初に製作したのは1980年頃に、当時では新進気鋭の米国ザイログ社製8ビット型CPUであるZ80というICを使用したワンボートマイコンです。クロック周波数は確か2.5MHz程度だったと思います。現在のパソコン64ビット3.5GHzの1万分の1以下の処理速度です。もっともその当時の大型コンピュータでも現在のパソコンの処理能力の足許にも及びません。

私は会社の京都製作所の今で言うIT部門におり、その頃パソコンの黎明期で、会社でも先ず勉強としてマイクロプロセッサー(当時はマイコンと呼んでいました)を勉強しようということになりました。会社で組み立てキットを購入し、併せて自分でもコンピュータが動く原理を最底辺から勉強し、とても楽しいものでした。またIT部門という名称は当時まだなく、システム部門とか機械計算部門という名称が一般的でした。

電子工作スジの方々の古くからの愛読書「トランジスター技術」(略称「トラ技」)で見つけた組み立てキットを購入しました。約20cm四方の電子基盤にCPU、メモリ−等各種IC、抵抗、コンデンサー、トランジスター、水晶発振機、コイル、小さな液晶パネル(電卓の表示窓的なもの)、キーボード(16進数入力用、テンキーにA〜F、その他が加わったもの)など様々な部品を半田付けして製作するものです。半田付けは数百か所もありました。
電源は直流5Vでしたが、これも勉強のため雑誌の記事を見て一から製作しました、トランスを使用した当時としてはオーソドックスで重たいものでした。

私の下手な半田付けの結果、所謂イモハン(外見上は半田付け出来ている様に見えるが、実際はしっかりとは接続出来ておらず、線を引っ張るとずるずる抜けたりする)等続出で、電源を入れてもさっぱり動きません。測定機は手元にはテスターしかなく、テスターではどこが悪いのか見当を付けることが出来ません。幸いIT部門にはメインフレーム(当時はホストコンピュータと呼んでいました)があり、コンピュータメーカーのCEさん(Customer Engineer:コンピュータのハードウエアをメインテナンスする人)がコンピュータ室に常置しているシンクロスコープを御ことわりの上拝借し、波形を見ながら山盛りの不具合ヶ所を直し、上手く稼働した時は感動しました。

プログラムは最近のようなJavaとかCの様な高級言語ではなく、機械語(二進数を16進数表示したもの)のみが使用出来ます。先ず紙にアッセンブラー(機械語を数値でなく分かりやすい英字の記号にしたもの)を書き、それを自分で機械語に翻訳し、キーボードから入力するものです。簡単な計算や条件によりLEDを点灯させる程度のプログラムしか作成出来ませんでしたが、コンピュータの原理をよく理解できました。プログラムの保存にはカセットテープレコーダーを外付けで使用していました。

この頃からこのZ80というCPUを使用したパソコンが出現し始めました。例えばシャープのMZ−80C,NECのPC8001などです。会社でもMZ−80Cを数台購入し、部門毎のスタンドアロン的なデータ処理に活用しておりました。それらのパソコンはBASIC言語が使用でき、フロッピーディス装置、プリンターなど一式で1台90万円程度でした。現在のパソコンから比べると結構高価なものでした。私は製作所内のパソコン導入の旗振り役で、その後暫く本格的パソコン時代の初期段階まで使用方法、言語教育などを担当していました。メインフレームの仕事より小回りが利き、自由に活動できる部分が多く実に楽しい時期でした。
タグ:パソコン Z80
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2012年11月10日

小倉城−2


私は就職してから20年間、勤務地が京都でした。その20年間で京都には様々な思い出があり、その一つに「地蔵盆」があります。

地蔵盆を身近に感じたのは約200戸もある社宅の自治会長をやった時です。
京都では特に暑い8月のある土日に朝から晩まで、子供達の健やかな成長を祈ってお祭りを各町内で行うのです。

先ず子供一人ひとりの名前が墨書された60cm位の綺麗な提灯を3段重ねで飾ります、中には電球をいれ夜には灯りをともします。社宅には子供が300人近くいるので、これの準備が大変です。高さ3m位、巾50m位の三段の足場を社宅の広場に組み、電気の配線を行い、各戸から集めた提灯をぶら下げ、中にひとつづつ電球を入れるのです。大変ですが、完成するとかなり壮観です。夜と雨降り時には役員で全ての提灯を外して仕舞います、朝と雨上がり時は足場に昇り再びひとつづつ掛けるのです。

お祭り定番の沢山の夜店やゲームを行います、業者は一切いれずに全て自治会でやっていました。会社のクラブ活動である軽音楽部に出演を依頼し演奏、生オケを華々しくやって頂きます。そのためのステージも製作します。近所の方々も大勢来られるので5〜6百人以上集まります。子供たちは本当に嬉しそうにはしゃぎまわります、大人たちもビールと焼き鳥などで御満悦です。

この地蔵盆、聞くところによると、前回登場した小倉城主細川忠興正室ガラシャの父親、明智光秀を祭ったお祭りだそうです。どうも世間一般に言われる明智光秀像よりも京都での評価は高いようです。京都盆地の西の山間部にある亀岡と、琵琶湖西岸の坂本に明智光秀の城があり、京都・滋賀一帯になかなかの善政を敷いていたそうで、住民は彼を奉っていたとのことです。
タグ:日本史
posted by ビールとワン at 09:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2012年11月09日

小倉城 ( こくらじょう )

小倉城大(出典:sacchann様).png
(写真:小倉城 出典:sacchan様「さっちゃんのブログ」http://sacchan723.blogspot.jp/2010/03/blog-post_28.html
から頂きました。写真使用のご承諾頂きありがとうございます。)
クリックして頂くと原寸表示されます。

私は小学生の頃、九州の旧小倉市および旧戸畑市に住んでいました、今では両旧市とも北九州市の一部となっております。学校は小倉北区の西の端にある当時の名称で「小倉市立中井小学校」でした、卒業後1年余りで千葉県に引っ越したため、残念ながらその後訪れたことはありません。

最近ネットで調べると現在は立派な校舎になり、今も活気があるようで安心いたしました。私が入学した当初は教室が不足で午前と午後の二部授業でした。早くから給食を実施しており、入学したばかりのころ、上級生のお姉さんたちが教室に来てお汁粉を配ってくれ、「学校っていいところだなー」と思ったことを覚えています。歴史の欄を見ると、当時の校長先生のお名前が見え、とても懐かしい想いがいたします。

その小学校から高学年の頃、貸切バスに乗って小倉城へ大勢で写生兼遠足へ行ったことがあります。小倉城は江戸時代に焼失しており、それがめでたく立派に再建されたので写生兼遠足へ行ったわけです。
天守閣が少し変わった形で最上階の下の方が少しすぼまった形をしており、ウエストがくびれているみたいな洒落た感じでした。誰から聞いたのかは覚えていませんが、「殿様の奥方がガラシャ夫人というキリスト教の人で、その方にあわせて洒落た感じにしてある」、というようなことでした。
小学生の私はそれを聞いて「小倉城には外国人の奥方が住んでいたのかー」と納得していました。私は小さい頃から30歳位までは歴史が大の苦手で、まったく無知でした。

30歳を過ぎた頃からにわかに歴史がすきになりました。小倉城の最初の城主は細川忠興で正室はガラシャ、本名は球(または玉)、で日本人であることをやっと知りました。ガラシャはかの有名な明智光秀の娘で、関ヶ原の戦いの直前に石田三成に人質として捕らわれそうになり、それを拒否し自害して果てたそうです。細川忠興が徳川方についており、夫が十分に働けるようにとの配慮といわれています。

辞世の歌

  散りぬべき 時知りてこそ 世の中の

             花も花なれ 人も人なれ

細川忠興が小倉城の城主となった時点では、既にガラシャはこの世にはいませんでした。
小倉城の天守閣の最上階の下がすぼまっているのは、徳川家康による天主階層規制をパスするための方策といわれています。しかし私としては、細川忠興はガラシャを深く愛していたらしいので、その想いを込めて洒落た形の城を構築したと思いたいものです。
タグ:日本史
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2012年11月08日

1972年に初めて買ったカメラキャノンFTb−2


キャノンFTbの美しい機構にTTL測光があります。TTLはThruogh The Lenseの略で、レンズを通した光の明るさを測定します。今では当たり前ですが当時としては画期的でした。

TTL測光になる前は露出計というタバコの箱位の大きさのもので被写体の明るさを測定し、それにより絞り値、シャッター速度を決めていました。露出計だけで現在の小型デジカメ程の大きさでした、家にあったのは立派な革ケースにくるまれていた記憶があります。

露出計がない場合はフイルムの説明書に「シャッタースピードが125分の1の場合、屋外の晴天では絞り8、曇りでは絞り5.6、明るい海岸では絞り11に設定してください。」の様な記載があり、それを参考にしていました。

そのうち露出計が小型化され、カメラにレンズとは別の窓枠で組み込まれるようになりました。初期はセレンを使用し、カメラにはカエルの卵みたいな表面をした四角い窓がありました、後にはCds(硫化カドミウム)やフォトダイオードを使用し、窓は小さな丸になり大分スマートになりかつ高性能になりました。

少し脱線しましたが、キャノンではFTbの前進のFTや、ハーフミラーを使用したペリックからTTL測光が採用されました。TTL測光一眼レフを世界で初めて製品化されたのは東京光学(現在のトプコン)製トプコンREスーパー、続いて旭光学のアサヒペンタックスSP(SpotMatic)で、当初は絞り込み測光方式でした。

ちなみに1972年、その頃の一般的なカラーフィルムの感度はASA100で、現在のデジカメの6400とか12800なんて想像もできない世界でした、まして撮影中にASA感度を変更できるなんてとてもとても・・・。
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2012年11月06日

1972年に初めて買ったカメラキャノンFTb

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今日からブログを始めたいと思います。雨降る外を眺めながらビールを飲みながらゆっくりと。
私は1949年生まれ、2009年に定年退職をした団塊世代です。

まず昔のカメラの話です。
私が一番最初に購入したのはキャノンFTbという一眼レフでした。購入した日を良く覚えています。
私は当時入社半年目の新入社員で京都に住んでおりました。1972年11月18日、東京の大丸デパートで購入、当時はたいがいのデパートでカメラを売っていました。なぜ日付まで覚えているかというと、私の結婚式の前日だったからです。新婚旅行へいくにはカメラが必須と考えており、あわてて買いに行ったわけです。ブラックモデルのかっこいいやつです、今でも手元にあります。買う時は店員さんにニコンのニコマートを勧められましたが、ニコンならばニコマートではなくフォトミックでなければと思っていましたし、フォトミックは私には技術的にも年齢的にも経済的にも分不相応と思っておりました。

翌日、今はなき赤坂プリンスホテルで結婚式を終え、その翌日羽田から北海道へ向かいました。飛行機の中で新しいカメラの説明書をワクワクしながら一生懸命読んだことを覚えています。結婚したことはものすごくうれしいけど、念願の一眼レフを購入したこともとてもうれしく、ニコニコでした。

キャノンFTbはその前のキャノンFTを改良したモデルです。違いは解放測光ができることとレンズがFLレンズからFDレンズになったことです。
ファインダー内の右端に露出計の針と、絞りに連動する輪が見えており、レンズの周囲の絞りリングを回し、針と輪を重ね合わせると適切な露出になるのです。その時FTでは実際にレンズの絞りが絞り込まれてしまい、ファインダー内が暗くなりピントが合わせられないため、絞りを解放にしてあらかじめピントを先にあわせておく必要がありました。FTbはこれが絞り解放のままできるのです、シャッターが切られる瞬間に絞りこまれます。また、マニュアルで絞り込んで実際の周囲のボケ具合を確認することもできました。
ピント合わせはもちろんマニュアルです。スプリットイメージとマイクロプリズムの2方式が一般的で、私は動いているものにピントがあわせやすいマイクロプリズムを選択しました。当時の普及型一眼レフはピントグラス(スクリーン)が交換できず、購入時にカメラごと選択する方式でした。

レンズはFD1.4、50mmで、すっきりとした写りでとても好きでした。
当時は重く感じませんでしたが、今測定してみるとボディと標準レンズで1160gあります。今では500g超えると重い〜。

掲載したFTbの写真は現在愛用のソニーNEX−5、18−55mm、F3.5−5.6で撮りました。写真をクリックして頂くと拡大表示されます。
タグ:カメラ
posted by ビールとワン at 15:00| Comment(22) | TrackBack(0) | カメラ